サンドペーパー

ライター・編集者 高木さおりの思考と生活の記録

ジブリ映画の「推し」で、自分の変化に気付いた

継続が苦手だという話ばっかり書いてる気がしますが…

週一筋トレは続いております。

バーベルの重量とか目に見えて前進するのは楽しい。

(ちなみに体重はゆるゆるですが、開始から4キロほど減)

 

筋トレがなんで続くのだろう、という考察について、

また一つ思い出したことがありました。

 

それは、自分がいいなと思う「人物像」について。

 

例えばスタジオジブリの映画。

毎作品、多彩なキャラクターが登場しますが、

きっと皆それぞれに思い浮かぶ「推し」がいるのではないかなと。

それが、私の場合は圧倒的に

天空の城ラピュタ』のドーラなのです。

空中海賊「ドーラ一家」の女首領にして、飛行船・タイガーモス号の船長。50代。頭脳明晰かつ決断力に富み、三人の息子や子分たち以上の健脚で「女は度胸だ」と豪語し自ら危険にも果敢に飛び込む胆力の持ち主。間が抜けている息子や子分達に嘆息し「バカ息子共」「バカ共」と怒鳴り散らして恐れさせる一方、失意のパズーを叱咤激励しつつ受け入れ、おさげを切られたシータを抱きしめていたわるなどの度量の深さや優しさも併せ持っている。

Wikipediaより引用しました↑)

 

そして次点が、

天空の城ラピュタ』のおかみさん。パズーの親方、ダッフィーの妻ですね。

ダッフィーの妻。肝の据わった性格で度胸もあり、町の荒くれ男たちとドーラ一家との乱闘騒ぎをフライパン片手に見守った。
パズーを実の息子のように可愛がっている様子で、パズーに脱出を促しつつその覚悟を汲み、シータを守るように伝えて送り出した。
EDでは「おかみ」とクレジットされている。

(こちらもWikipediaより引用)

 

端的に言って「強い」女性が好きなよう。

 

以前、筋トレに毎週通う私を知った人から

「何を目指してるの?」

と問われたことがあったのですが

そこで思い浮かんだのが「戦闘力を上げたい」という気持ち。

スカウターで測るやつ)

ダイエットが目的ではなくて、もちろん大会に出たいとかもなくて、

とにかくフィジカルが強い人になりたい。体力をつけたい。

この気持ちは、子どもを産んでいっそう高まった気がします。

もとを辿れば、子どもの頃からあれこれ疾患持ちで、

自分のフィジカルに自信がない、という点から来ているのかもしれないけど。

 

ということで、今年は週一回にとどまらず

もっと鍛えていきたいと思っているところ。

 

振り返ってみれば、

昔は、『魔女の宅急便』の主人公キキに共感して、

おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。

というキャッチコピーが、まさに自分の日々にぴったりだな、と思っていたけど

今の自分に照らし合わせると、ちょっと違うな、と思う。

その頃の推しは、

魔女の宅急便』の前半に登場する画家の女性ウルスラで、

創作にひとり没頭する姿に憧れていた。その姿は今も素敵だと思いつつ、

でも現在は前述のドーラとおかみさんにより惹かれる。

 

この先、また環境が変わると

今の感覚をこうして懐かしむ時が来るのだろう。

その時々の悩みやなんかも、喉元過ぎればなんとやらで、

実際はそう長くは続かないんだなと気づける。

その時々で、異なる環境や感情を味わっていける。

だから人生は飽きないな、ざっくり見積もって、楽しい方が勝つな、と思えるのです。

【日記】継続できるものと、できないものの違い

いつのまにか、11月も終盤。

 

忙しい、というと、

自分のスケジュール管理能力不足を露呈するようで恥ずかしいけど、

ここ数ヶ月、現在進行形で仕事がてんこ盛りで余裕をなくしています。

たまに子の風邪が移ったりしながらも、なんとか元気にやっています。

 

週一の運動習慣は事前に予約するシステムのおかげで継続中。3ヶ月経過!

私的には快挙です。これが自主トレだったら早々にやめていたに違いない。。

 

ちなみに本当に、継続というものが苦手な私ですが、

この編集・ライターの仕事はずっと形を変えながらも続いているんですよね。

 

続くものと続かないもの、何が違うんだろうと考えたところ

そこに締め切り、約束があって、その向こうに「人」がいるからじゃないか、と。

目の前の誰かとの約束を果たしたら、次の誰かとの約束があって、また次の、、と続いてきた。

 

せっかく約束を果たすなら、

相手のためにも自分のためにも良い形で果たしたいと思う。

だから、もっとスキルを磨きたい、見聞を広めたい、と考えたり

あとは、

もっと自分の興味のある分野の約束がしたい、とか思ったりするようになって

飽きる暇もなくいろんな山を見つけて登ってきた感じがする。

 

同時並行で新しい山ばかりが見つかって、

現状に満足することなく、落ち着く間もないのは時に苦しいけど。

 

とはいえ、

このblogは今のところ誰かと約束しない場所なので

こんなふうにふらっと舞い戻ってきて

書きつけるところとして置いておこうと思います。

そんな場所もきっと必要。

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これは先日、家族で散歩した鎌倉の砂浜

 

微アルコール「ビアリー香るクラフト」を飲んだら、自分とお酒の「距離感」がわかった

発売前より評判を聞いていた、ビアリー香るクラフト。

本日コンビニで見つけて、早速購入してみました。

アルコール度数0.5%の“微アルコール”ビールテイスト飲料です。

 

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パッケージに書かれたのは「フルーティーな香りとコク」というコピー。

うん、確かに。フルーティーな香りで、

ノンアルビールなどのビールテイスト飲料全般にある、

独特の風味が隠れていて、良い感じです。

昔、限定で出ていたオールフリーの香り華やぐホップを思い出しました。

こちらもフルーティな香りのおかげで

上記の「独特の風味」が隠れて、ノンアル系のなかではお気に入りでした。

(その頃ちょうど妊娠中だったのでノンアル一択だった)

 

通常のビールのアルコール度数は約5%。

ということは、ざっくり言うと、

「ビアリー10本」飲んだら「ビール1本分」の

アルコールを摂取したことになるのでしょうか。

 

お酒に強いわけではない私の場合、

家でリラックスしてビールを飲むと1缶で顔が真っ赤になって

ふんわりと「酔ったな〜」という感覚になります。

それが、ビアリーだとまったく顔色は変わらず。

「酔い」の感覚としては本当に、微々たるもの。

 

つまり「酔えない」のです。

種類によっては、このまま仕事をできないこともない。

でも、当然だけどノンアルを飲んだ後の気分とは確かに異なる。

 

この初めての感覚が不思議すぎて(違和感とも言える)、

「そもそも私、どうしてお酒を飲むんだっけ?」

という原点に立ち返ってしまいました。

「私、お酒に『何を』求めてるんだ?」と。

 

ただただ純粋にそのお酒の味が好き、なのか

食事との相性を楽しみたいのか、

それとも「今日は酔いたい気分!」なのか。

 

実はこの記事は着地点が分からないまま書き始めてしまいましたが

書き進めるうちにわかってきました。

とにかく私が「今」、飲みたかったお酒は、ビアリーじゃなかったな、と…!

この「物足りなさ」を原動力にこのブログを書いているようです。

そう、仕事をしなくても大丈夫な「酔って解放感を味わいたかった」週末の夜に選ぶべきは微アルコールじゃなかった。

ビアリーはまったく悪くありません。悪いのは選択を間違えた私。

じゃあ今、飲みたかったのは何かというと、

アルコール8%ぐらいのシードル(ドライなシードル大好きです)や

15%くらいのワインだったらぴったりだったのかな。

 

じゃあ、逆にビアリーを飲みたいシーンは?

ノンアルじゃなくて微アルがフィットするのは

・酔わずに本(仕事の資料ではない本)を読みたい週末の夜

・週末のごはんで、ビールがあるメニューの日(カレー、餃子など。ごはんの後に後片付けや子どものお風呂、寝かしつけなどあるので酔わない程度が◎)

すごくニッチな感じですが、それこそ最適だなと。

で、ノンアルは平日のごはんでビールと合うメニューの時かな。

もしくは、忙しくて夜も仕事が続くけど、大きな仕事が一つ終わった日。

「一区切り」の打上げ気分だけでも味わいたい日。

(ちなみに現在のノンアルのお気に入りはヴェリタスブロイです)

 

上記は私の場合で、きっとみんなそれぞれに違うのでしょう。

 

新しいジャンル「微アルコール」を飲んだことで

はからずも、自分がお酒に求めるものを、あらためて整理することができました。

自分が各シーンでより心地よく過ごせる状態って「具体的にどんな感じ」か?

それに敏感になることで自分の輪郭がはっきりしてくる気がします。

 

酒は飲んでも飲まれるな、という言葉があるように

お酒との付き合い方はなかなかに難しく、

その距離感は自分主体で微調整していきたいと思っています。

(あえて酒に「飲まれにいく」日があってもよし、という意味でも、です)

だからこそ、「選択肢」が増えるのは、ありがたいですね。

【読書】共依存でも支配でもない人間関係って/『傷を愛せるか』宮地尚子

トラウマ等を専門にする精神科医宮地尚子さんのエッセイを読みました。

 

タイトルは、『傷を愛せるか』。

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この本は、精神科医である宮地さんが、

○○な考え方を取り入れると「こんな傷が」解決に向かうはず、と

具体的に指南する本ではありません。

綴られるのは、臨床での気付きや、

臨床を離れた宮地さんが映画を観たり、旅したりする中で考えたこと、気づいたこと。

 

ダイレクトに解決策を与えるものではないのに、

それはやはり傷を持つ人々の背中に手を当ててくれるような

温かい言葉ばかりでした。

 

なかでも心に残っているのが、

トラウマをもつ患者との臨床での気づきを語る、

『予言・約束・夢』というエッセイです。

 

宮地さんは、トラウマを持つ人と臨床現場で接する際、

「あなたはいつかきっと幸せになれると思うよ」

「あなたが幸せになっていくのを、わたしは見守っているよ」

という言葉をかけるといいます。

それは「きっと幸せになれる」という予言の言葉であり、

「見守っているよ」という約束の言葉。

この言葉を「命綱」と例えていました。

トラウマという過去の呪縛からその人が解き放たれるために、

未来を捉えるこの「命綱」が機能する。

 

そして宮地さんはこうも言うのです。

ときどき考えるのだが、命綱やガードレールなどの本当の役割は、実際に転落しそうになった人をそこで引き(押し)止めることでは、おそらくない。<中略> そこにそういうものがあるから大丈夫だと安心することで、平常心を保つことができる。本来の力を発揮し、ものごとを遂行することができる。たいていはそのためにこそ役立っていると思うのだ。

(本文より引用)

 

この一節を読んで、頭に浮かんだのが、

パーソナルトレーニングで毎回行うブルガリアンスクワットです(かなり突然ですが…!)。

片足で立って手は腰に当て、ひざを曲げ伸ばしするスクワット。

後ろ足はベンチに軽く乗せるだけで、

ほとんどの体重が前足1本にかかります。

 

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↑こういうのです。私の場合は手は腰に

ほぼ片足重心なので、当然バランスが崩れてフラつくのですが、

毎回、トレーナーさんが片方のひじに手を添えてくれるだけで

急に安定して行うことができる。これがいつも不思議でした。

もし私が転倒しそうになったらすぐに支えてくれる位置にいるけれど

ガシッと持って支えているわけではない。ただ指先を添えるだけ。

 

このあり方が、あらゆる人間関係に言えるのだろうな、と思い至ったのです。

親子も、夫婦も、友人も、仕事も。

 

相手には自分の足で立てる力があると信じずに、

すぐそばで過剰に支えると、その人の自立する力が育たない。

時に「共依存」の関係に陥ってしまうかもしれない。

支えると見せかけて、

その実、相手をコントロールしたいという気持ちの裏返しの場合さえあったりする。

 

自分の実生活に目を向けると、この塩梅がいかに難しいかというのがわかります。

いつでも手を出せる場所にいて目は離さないけど、本人の力を信じて任せてみる。

特に小さい子どもの場合、いつまでの赤ちゃんだった頃の気分が抜けず

過剰に手を出してしまいがちでいつも反省してしまう。

忙しい平日の夕方なんて、とくに自分でやってあげたくなる。いや、これは心配とかじゃなくてきっとコントロール欲なのかもしれない(直視すると辛い…)。

 

なんだか宮地さんのエッセイの本筋から逸れていってしまいましたが

一編の文章からこうやって自分を振り返り、

考えをあれこれと展開する時間を持てた。

その余白が残されているのが、エッセイの魅力だなと思います。

(解決策を提案する実用的な書籍も大好きなんですが!)

【筋トレはじめました】自分軸のエイジングケア

年齢で人を差別するエイジズムには断固反対、ですが

何かに脅されたり強制されたりして始めるわけではない、

その人自身が選び取るエイジングケアは大賛成。

それによって、その人自身が心地よく過ごせるなら素敵だと思う派です。

 

ダイエットも同じく。

最近ではボディポジティブではなく

ボディニュートラルという視点が主流になりつつありますが

「ありのまま」を必ずしも愛せないとしても

そういった自分の感情をそのまんま受け入れることは

無理やり前向きにいるよりも返って自分にやさしい、と思います。

 

ということで、私自身の話。

・40歳手前になって体力の衰えを日々痛感

・もろもろの慢性疾患あり

・そして体重、、産前プラス6キロのまま

なのですね。

 

日頃の生活習慣を振り返ってみると

・定期的な運動習慣は特になし

・野菜を取ることと適度なタンパク質は意識しているものの、量はたっぷり

・スイーツ大好き。間食は毎日の欠かせない習慣

この条件なので、

妊娠出産で増えた体重が戻らないのは当然ではあるのですが

実際のところ、体重は二の次。

さしあたっては、とにかく体力を付けて健康になりたかった!

仕事と2歳育児の両立は特に繁忙期などなかなかハードで

この貧弱な体力では乗り切れそうにないと危機感を持っていました。

 

そんな話を仕事関係の方に相談したところ

筋トレのパーソナルトレーニングをすすめられて

さっそく始めてみたのです。

 

私は、始めるときのフットワークは軽いのですが継続がなんとも苦手なタイプ。

でも、トレーナーと約束して通うスタイルは

自分に合っていたようです。開始して1ヶ月が経ちました。

まさか、私がプロテインを飲むようになるとは。

(いまだシェイカーを振ってプロテインを作る自分に慣れません)

 

まずは週1回で開始したのですが、今はもっと筋トレしたい、という気持ち。

週2回にするか近所の普通のジムにも入会して組み合わせるか、

自宅トレを加えるか、など考え中です。

(今は自宅トレを少し加えています)

 

筋トレを開始して変化したことなどまたここに書けたらと!

あすけんアプリを使って、

食事のPFCバランスも以前より意識するようになりました。

とにかく、今は何より継続することが目標。

 

30代前半までの自分は

「エイジングは自然現象。時の流れにまかせて正しく枯れる姿勢が素敵なのでは」

ぐらいのことを考えていたのですが

いざ自らの衰えを実感すると、当時は何もわかっていなかったな、と。

「正しく枯れる」という言葉がもっともそうに見えて、事実あまりにも薄っぺらかった。正しさなんて人それぞれで、誰にも決められない。

主軸が自分にあるエイジングケアは、

立派な心身のセルフケアだと今は思っています。

【展示】石原海『重力の光』shiseido art egg

銀座の資生堂ギャラリーで開催中の石原海さんの展示『重力の光』へ行ってきました。

当ギャラリーが行う『shiseido art egg』という新進アーティストの公募プログラムで選ばれた展示です。

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展示の内容は、映像作品とインスタレーション

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この映像作品が、素晴らしかった!本当に、観に行けてよかったです。

 

映像作品を演じるのは、北九州の生活困窮者支援NPO法人「抱撲(ほうぼく)」の教会に集う人々。基本的なストーリーはキリスト教の最後の晩餐から受難、十字架、そして復活までの内容で、彼ら、彼女らはそれぞれの役を演じているわけです。しかし、その合間に差し込まれるのが、役から離れた一人ひとりの、個人的な自分語り。その2つのテーマが交差して展開していきます。

 

ホームレスだった、極道から抜け出した、幼少期から厳しい家庭環境におかれて人を信じられなかった、それぞれが個人的なエピソードを語る表情は、過去のどうにもならない苦しみと自分なりに折り合いをつけられた、折り合いつけつつある人のそれだったように思います。だって、苦しみの渦中にあったらああいう風に淡々と語ることはできないと私は思うから。

 

苦しみって、その大きさは大なり小なり、きっと誰もが持っているはず。だからこそ、誰が観たとしてもどこか自分ごとのように思える作品なのではないかなと思いました。

本当に、生産性とか役に立つかどうかとか、そういう価値観では人間そのものを測れるわけがない。そういう視点に陥った時点で他人ならず、自分自身の首を締めることになるんだろう、と。

 

抱撲と、代表の奥田知志さんのことは以前から知っていました。

奥田さんのインタビューでは以下の動画が心にのこって、何度か観返しています。

www.youtube.com

上記のなかで心にのこった言葉が、「傷の社会化」。

一人ひとりが抱える苦しみを、自己責任や家族の責任など閉じた空間に押し込まず、いかに世間の傷として共有していくかという視点。

フェミニズムのいう『個人的なことは政治的なこと』という言葉もこれに共通するはず。この視点を忘れずにいたいと、観るたびに思います。

 

生活困窮者支援に関しては、以前、

東京でホームレスに住宅支援を行うNPO法人

「つくろい東京ファンド」の稲葉代表に取材しました。

 よかったらお時間のあるときに読んでいただけるとうれしいです!

 

石原海さんの展示は、10/10(日)まで!

気になる方は、ぜひぜひ銀座の資生堂ギャラリーまで行ってみてください。