【読書】共依存でも支配でもない人間関係って/『傷を愛せるか』宮地尚子
トラウマ等を専門にする精神科医、宮地尚子さんのエッセイを読みました。
タイトルは、『傷を愛せるか』。
この本は、精神科医である宮地さんが、
○○な考え方を取り入れると「こんな傷が」解決に向かうはず、と
具体的に指南する本ではありません。
綴られるのは、臨床での気付きや、
臨床を離れた宮地さんが映画を観たり、旅したりする中で考えたこと、気づいたこと。
ダイレクトに解決策を与えるものではないのに、
それはやはり傷を持つ人々の背中に手を当ててくれるような
温かい言葉ばかりでした。
なかでも心に残っているのが、
トラウマをもつ患者との臨床での気づきを語る、
『予言・約束・夢』というエッセイです。
宮地さんは、トラウマを持つ人と臨床現場で接する際、
「あなたはいつかきっと幸せになれると思うよ」
「あなたが幸せになっていくのを、わたしは見守っているよ」
という言葉をかけるといいます。
それは「きっと幸せになれる」という予言の言葉であり、
「見守っているよ」という約束の言葉。
この言葉を「命綱」と例えていました。
トラウマという過去の呪縛からその人が解き放たれるために、
未来を捉えるこの「命綱」が機能する。
そして宮地さんはこうも言うのです。
ときどき考えるのだが、命綱やガードレールなどの本当の役割は、実際に転落しそうになった人をそこで引き(押し)止めることでは、おそらくない。<中略> そこにそういうものがあるから大丈夫だと安心することで、平常心を保つことができる。本来の力を発揮し、ものごとを遂行することができる。たいていはそのためにこそ役立っていると思うのだ。
(本文より引用)
この一節を読んで、頭に浮かんだのが、
パーソナルトレーニングで毎回行うブルガリアンスクワットです(かなり突然ですが…!)。
片足で立って手は腰に当て、ひざを曲げ伸ばしするスクワット。
後ろ足はベンチに軽く乗せるだけで、
ほとんどの体重が前足1本にかかります。
ほぼ片足重心なので、当然バランスが崩れてフラつくのですが、
毎回、トレーナーさんが片方のひじに手を添えてくれるだけで
急に安定して行うことができる。これがいつも不思議でした。
もし私が転倒しそうになったらすぐに支えてくれる位置にいるけれど
ガシッと持って支えているわけではない。ただ指先を添えるだけ。
このあり方が、あらゆる人間関係に言えるのだろうな、と思い至ったのです。
親子も、夫婦も、友人も、仕事も。
相手には自分の足で立てる力があると信じずに、
すぐそばで過剰に支えると、その人の自立する力が育たない。
時に「共依存」の関係に陥ってしまうかもしれない。
支えると見せかけて、
その実、相手をコントロールしたいという気持ちの裏返しの場合さえあったりする。
自分の実生活に目を向けると、この塩梅がいかに難しいかというのがわかります。
いつでも手を出せる場所にいて目は離さないけど、本人の力を信じて任せてみる。
特に小さい子どもの場合、いつまでの赤ちゃんだった頃の気分が抜けず
過剰に手を出してしまいがちでいつも反省してしまう。
忙しい平日の夕方なんて、とくに自分でやってあげたくなる。いや、これは心配とかじゃなくてきっとコントロール欲なのかもしれない(直視すると辛い…)。
なんだか宮地さんのエッセイの本筋から逸れていってしまいましたが
一編の文章からこうやって自分を振り返り、
考えをあれこれと展開する時間を持てた。
その余白が残されているのが、エッセイの魅力だなと思います。
(解決策を提案する実用的な書籍も大好きなんですが!)